映画と犬と優しい世界(仮)

好きな映画について好きなことを書きます。ヒューマンドラマ,ラブストーリー,ファンタジーetc

セロリと亀と見上げるサボテン

〝孤独と1人は、同じじゃない〝


あらすじ
90歳の気難しい現実主義者ラッキーを主人公に、全ての者に訪れる人生の最後の時間を描く。神など信じずに生きてきた90歳の男ラッキー。ひとりで暮らす部屋で目を覚ますとコーヒーを飲んでタバコをふかし、なじみのバーで常連客たちと酒を飲む。そんなある日、自分に人生の終わりが近づいていることに気付いた彼は、「死」について思いを巡らせる。子どもの頃に怖かった暗闇、去っていったペットの亀、戦禍の中で微笑んだ日本人少女。小さな町の住人たちとの交流の中で、彼は「それ」を悟っていく。

かんそう
「全ては無だ、最後は微笑むだけ」
現実とはそこにある物である。客観的なような、でも主観でもあって、その人にとっての真実。
人は死に向かって生きている。
そう聞いたことがあるし、ほんとにそうだと思う。わたしたちは、何も持たずに生まれてくる。日常というルーティンを身につけながら、確立させながら自分という現実を作り上げてゆく。やがて日常が日常として繰り返されなくなった時、人は死を意識する。そしてそれを受け入れてゆく。(それをせずに死ぬ人も多くいる。)死という意識を持って歩むことは、執着を捨ててゆくことだ。作り上げた現実という自分を、1つずつ切り離してゆく。最初は恐怖と違和感を持つけれど、最後にはそれすら切り離す。生への執着を捨て切ったとき、全てが無に戻り死に対峙したその瞬間、顔に浮かぶのが微笑みであるとしたら、それはなんて幸福なのだろう。


私は執着を捨てられるのだろうか。自分の顔に皺が刻まれた時、1つずつ日常が失われる時、大切に積み上げてきたものを捨てていけるのだろうか。
この映画を観終わった後、主演俳優が既にこの世を去っていることを知った。遺作と知った上でもなお、ラッキーの日々がもう少しでも続くことを願わずには居られない。ただでさえあと50年は生きていてほしい人や犬がいる。私にはまだ身につけるべきことが、あり過ぎるほどある。
会ったことのないおじいちゃんにまで及ぶこの現存への執着は、いま私は強烈に生きている、ということの証明に他ならない。なんてね。


おじいちゃんだったり樹木だったり、年季が入ってよぼよぼで、でも力強く、すっくと立ち上がっている存在にめっぽう弱い。